2022年2月23日
お久しぶりです。
キモイ読者が増えすぎて(いきなり悪口?)書く気がイマイチ起きずお休みしてました。
精神的な負担が一気に押し寄せてきて、逃げるように寝たら夢を見ました。
価値観の合わない知人と話をしていて、「好きなのはわかるけど、好きなられた人も負担はあるんだよ」と言われてしまって(あくまでも夢)そんなことは分かってるってキレ始めて「僕はお前に同情される余地なんかない」って吐き捨てて手首を切っちゃうんです。
切った手首からは血が止まらなくて、このままでは死んでしまうって気がついて慌てて家の前にタクシーを呼んで好きな人に会いに行こうとするのだけれど、当然タクシーは手首から血を流してる人は乗せてくれなくて警察を呼ばれて病院へ強制入院。
最後はどうでもよくなっちゃって入院していた病院の屋上から飛び降りて死ぬんです。
凄く最悪だけど、きっと夢になるってことは自分の引き出しの中のどこかに潜んでいたものなんだと気がついてどうやって息をしたらいいか分からなくなった。
2022年2月12日
別に死ぬ予定は今のところないですし、病気を患っているわけでも余命宣告されたわけでもないのにたしか自分の遺言をツイートしてくれるサービスがあったなぁ、とふと浮かび検索をかけたらいつの間にか終了していた。
その終了した理由というのがまとめサイトみたいなのに載っていたので少し引用
ダイレクトメッセージの通知に気付かずツイートされて混乱を与える恐れがあること、さらに今後のメンテナンスに自信がなく、その状態でサービスを続けるのは「利用者の方々に不誠実である」と思ったため
ぼくは実は一度だけそのサービスに登録したことがあります。
その登録したアカウントは知らぬ間に凍結していて実際に死亡ツイートはされなかったのだけれど、それでもその時はある意味少しだけこのサービスが救いだった。
当時は好きな人と繋がっていたSNSをブロックされてしまっていて、Twitterはこっそり特定して知っていたので、その死亡ツイートにその人のアカウントIDを貼り付けるようにカスタムしていたのだ。
その時のぼくからしたら例えそれが届くのが死後半年先だったとしても小さな希望以外の何物でもなかったのだ。
もし、ぼくと同じようにこのサービスに希望を抱いている人が他にもいたのなら、希望を少しだけ抱いて死んでしまった人がいるのならぼくはサービスを終了してしまったことを許せないなと思いました。
許す許さないとかの問題でもないし、きっとぼくは責めるべき立場の人間ではないけれど、
あくまでも前向きな理由、や人理的に考えた末の決断なのならそれは紛れもない暴力だし加害以外の何物でもないと思った。
もしぼくのこのブログを読んでいる人で死にたいなぁと考えてる人がいたらご連絡ください。
無責任に一度だけ止めたいなと思うので。
そんなことが出来るくらいにはぼくの実践的な倫理観は作用していません。
2022年2月11日
最近調子が良くない日が多いのは多分3月1日が近づいているからだと気が付きました。
友達と通話しながら人のことがこんなにも好きなのにどうして人を好きになれないのかをずっとずっと考えていたら、結論としてでたのは「諦めが足りない」でした。
人に対しての好意とか熱量というものがなくなったとか減ったとかではなく多分最初からなかったのに、好きな人がぼくの世界にばって現れてそれを残していっただけなんだということに気がついた。
これはあくまでも仮説ですしそれが一番都合がいいので暫定的にそうなっているだけだけれど、
たまに疑似恋愛をするんです。
名前も声も知らないような駅で一緒になった人とか信号が変わるのを待っている時に隣に立っている人とかを一瞬好きになってみるんです。
それも目的の駅についり、横断歩道を渡りきる頃には好きでいることを忘れるか好きな人のことが思い浮かんで無性に悲しくなって我に帰ります。
きっとこれは自傷行為に近いので早くやめないといけないなと思います。
2022年2月10日
ぼくは言ってしまえばこの体に生まれた時点で好きな人にとって加害者にしかなれないのだ。
「そんなことないよ」みたいな言葉は申し訳ないけれど本当にいらないので大丈夫です。
世の中の失恋ソングの多くは交際を経て別れてからの失恋を指す曲が大半なので嫌いです。
というか、最近の流行りの恋愛に纏わるJ-popって「2年3年で別れるカップル」を主体としすぎてませんか?
それの善し悪しは置いておいても、若年層の恋愛の脆弱性を加速化させてる気しかしません。
話が少し逸れました…
それでも例外はいくつかあって、その中でも好感を持てるのはOfficial髭男dismの「Pretender」です。
多分、スーパーとかコンビニとかでかけられてたと思うのでパッとは思い浮かばなくても「あ~あれか~」ってなると思います。
ぱっと思い浮かばない人用にサビだけ引用させていただきます。
グッバイ
君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさその髪に触れただけで痛いや、いやでも 甘いな、いやいや
グッバイ
それじゃ僕にとって君は何?
答えは分からない 分かりたくもないのさ
たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」
「え?これに好感持てるの?以外~」って思われるかもしれないけれど、ぼくは好きな人のことを運命の人なんて思ったことは一度もないし、好きな人の運命の人が自分だなんて思い上がったことはないので待ってください。
ぼくがこの曲の好感をいだいた歌詞はサビではなくBメロです。
もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった もっと違う性格で もっと違う価値観で 愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから
不覚にもここに共感を抱いてしまいました。
最初にも書いた通りぼくはこの体に生まれて、好きな人に好意を抱いてしまった時点で加害者にしかなれないのです。
もっと違う人生であの人と出会えていたらなって考えない日はないです。たぶん
不幸な想像をするときは決まってぼくなのに、好きな人が幸せそうに生きている妄想をするときは決まってぼくは居ないのです。
好意を抱いただけで、好意を伝えただけでも加害者になってしまうような人生をどうやって肯定すればいいんでしょうか
これから先も好きな人の全てを仮定して肯定して生きていこうと思います。
その全てを余すことなく否定してください。
2022年2月9日
少し前にも「好きな人を産みたい」って言説について書いた気がしますが、更にそれについて思うことがあったのでまた書きたいと思います。
その日のブログも一番下に貼っておきます。
好きな人の幼少期が可愛いことは…かわいいという言葉がここでは適切ではないけれどそれ以上に言葉が見当たらないので今回は可愛いにしておきます。
どんな表情で、何を見聞きして育ったか、どのようにして成長していくかその過程を知ることってきっと言葉で言い表せないくらいのことだと思うのです。
もし仮に、絶対に無理だからぼくはこうして毎日のように泣いているわけですが、死ぬまで一緒にいれたとしたら、死ぬまでの過程は知りながら生きていくことは出来ると思います。
それも素晴らしいし、それがいいな、それになりたい
けれど、ぼくのすきなあの人の倫理や性格や、不格好な歩き方の形成はそこではされていないのです。
新しい何かが形成されることがあっても今までその人を形作った何かを知ることは出来ないのです。
「好きな人を産みたい」って言説は中には本当に産みたいと思って使ってる人もいるかもしれないけれど、多分大多数のひとは好きな人が成長していく姿を1から見たかったってことなのではないかとぼくは思います。
関連記事
2022年2月7日
今日も積読を消化したりして過ごしていました。
ブログに書くことたしかあったはずなのに忘れてしまいました。
次からはちゃんとメモしようと思います。
暇を極めたあげく、話し相手もいなかったため「勝手にふるえてろ」を見返しました。
綿矢りさ作品は活字で一度楽しむことが出来て、映像で二度楽しめる。
二度美味しい作品なのです。
あと、なんと言っても本の装丁がピンクを基調とされているのがとても好感が高いです。
良香のイチへ対する想いの寄せ方や、たった数回の会話を大切に乱雑にしている生き方も、再会するために海外にいる同級生の名前を使って同窓会を開くところも全てが人ごととは思えなくて見てられないです。
一番好きなところを抜粋させていただきます。
体操着姿のイチを召喚ばかりしてないで、一目でいいから今のイチに会って、前のめりに死んでいこうって思ったんです
ぼくもあの人のことを思い出して泣くのはやめて、はやくもう一度、生きている生身のあの人と線を繋いで前のめりに死ななきゃダメだなと思いました。
福岡県で侵入可能の8階建てのマンションを知ってる方いらっしゃったらご一報ください。
立体駐車場でも可です。
2022年2月6日
実は4日前から身動きが取れない状況下におかれていてとても暇をしています。
これはいい機会だと思って積読を解消しようと思い、ずっと放置していた漫画を読んだり読まなかったりして過ごしています。
僕の人生で一番うつくしい場所神の御名も罪も罰も赦しもないただ一つの場所
君の隣だ
もう他に望むものはないここがあればいい今ここが僕たちだけの世界ならそれでいいこの海に手放せる
ぼくに全てを与え捧げてくれた人 ぼくをくれた人
「遥か遠き家」八田てき
きっと生きていて、誰かに救われることってあると思うんです。意図せずに救われたり、救ってしまったりその人間の勝手さのことをぼくは信じています。
ぼくもたくさん救われて生きてきました。(宗教的な話じゃないからみんな行かないで!!!)
けれど一番切に救ってほしいと願った人はぼくのまえから当たり前のように姿を消しました。
ずっと考えています。救われていたらどうなっていたのだろうって、
でも、救われるっていうのは自立すること、自分の足で立つことと似ている気がするんです。
何よりも怖いのが、切に願った対象がぼくのこれからの人生に必要なくなってしまうことだ。
多分これからもこの人生の軸となるものはこのブログのタイトル同様「生きるほどに恋をする」なので
救われたい、と願いながらも救われないことにどこかで安堵しているこのアンビバレントを抱えながらこれからも生きていくのかもしれないなと思いました。
ぼくを救ってぼくと一緒に生きてほしいです。
これが遺書へと昇華したとき何を思ってくれるのでしょう。