生きるほどに恋をする

遺書であり手紙であり日記です。

2022年1月25日

短歌の企画について少し考えていたので少し自分についての短歌の価値観を書こうと思います。

 

なぜ短歌を詠むかというのはブログを書くのと同じ感覚だ。

どうにも出来ないものがあり、それを昇華するために短歌を詠んでいる。

 

なぜ短歌なのかというと「落とし所」だからである。

 

短詩形文学は感情の昇華にとても適している。

けれど俳句は感情の入り込む余地がなく、詩だとただの感情になりやすいという弊害がある。

さらに詩に関して言うなれば詩でしかないのだ。

感情を美化しすぎてしまうだろうし、まず詩を書くのにとてつもない抵抗がある。

 

感情の付け入る隙があり、独りよがりにならないという点を踏まえると落とし所は短歌でだった。

 

ぼくにとって短歌は落とし所のようなものだ。

(「落とし所」と一概に言ってしまうと少し聞こえが悪いけれど、決して軽んじる意はないです。)

 

正直、ブログでもいい、なんならブログがとても好きだ。

けれどそれだと認知行動療法のようなものにしかなれないのだと思う。

 

そう考えると何かで昇華がしたい。そう思い短歌を始めた。

 

きっと真面目に文学として短歌に取り組んでいる人からすると、とても不純であると思うしふわふわし過ぎていると思う。

(かと言ってそれが悪いことかといわれるとそうではないと思う)

 

それでも短歌と会えてよかったと思うし、間違いではなかったと思う。

 

出会えてよかったというものに出会いたことも全てヾあの人がいたことと考えると、何だか少し息がしやすいです。

 

最後に最近の歌を3首だけ

 

・いつの日か言葉がきみを苦しめるその日のために歌を詠みたい

・もし死んでしまっていても知る術がないから僕は眠るのだろう

・きみが振りかざすであろう必要悪 御社が第一志望です。

 


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