生きるほどに恋をする

遺書であり手紙であり日記です。

2022年2月5日

人間関係って多分スマホとかのひびと似てるなと思ったので今日は少し書きます。

(久々に文章を書くので文体が綺麗じゃないのは許してください)

 


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ふとした時に携帯を床に落としてひびが入ってしまった時どうしますか?

 

ぼくは「あ~やっちゃったな~」とか思いながら使い続けると思うんです。

(実際今がそう)

 

携帯会社とか修理の専門店(?)へ行けばヒビは治るんですけど、大体の人は行かないと思います。

それは面倒だったり、目に見えてわかる手間の多さが嫌だったりするからだと思う。

でも、いつかは携帯変えるじゃないですか。 

使ってるときでもヒビ入ってるなと思いながら使うし、

永遠にiPhone5s使ってる人なんていないし、使えば使うほど劣化するし不都合はきっと増えるんです。

きっと変える時がくるんですよ。

 

人間関係も多分そうなんです。

 

友達でもいいです、恋人でもいいです、偶像崇拝でもいいです。

人と関わる上でその人の全てを肯定出来るとか、その人の全てを受容ではなく許容することって無理だと思うんです。

なんなら付き合いが長くなるほど、不信感みたいなものは増えると思います。許容できるものが減っていくと思います。

 

必ずと言っていいほど「それはどうなの?」とか「こうして欲しかった」みたいなことを思う時がくるでしょう。

 

でも、それを直接伝えることが出来る人は少ないと思います。

関係が崩れてしまうのが怖かったり、完璧な人間関係なんて存在し得る訳はないことをどこかで理解してしまっているからだと思います。

一番の理由は、面倒だからだとは思うのですが

 

やばい話のオチを考えてないまま書き始めたのですこし後悔してます。

 

人間関係もいつかは切れてしまうし、修復、修繕しないといけない日がくると思うのです。

 

日本は昔から「我慢する事」が美徳とされていると思うんです。

美徳として許される我慢は最低限の体裁を守るため、だけだと僕は思います。

(あとは生きるため)

 

我慢することによって被虐心(≒気づかないうちの自己加虐心)だったりとかって絶対いいものなわけないんです。

「自分はこんなに我慢してきたのに」みたいにキレる人って嫌じゃないですか。そういうことです。

 

いつかは爆発してしまって、本来話し合うべきタイミングを恐れてしまったら誰も幸せにならない。

いつかは機種変するのであれば、いつかは耐えられなくなってしまうのならぼくはそのとき話すべきではないかと思います。

 

(多分このブログは数日後読み直して気持ち悪くなって推敲し直すと思います)

 

ぼくもiPhoneSE3がでたら3年ぶりに携帯変えますね。